歴史

念願の古文書解読会

昨年の春先に3回ばかり出席したきり、どうにも参加できなかった古文書解読会に行ってきた。半年以上ぶりだ。今回は初心者向けに基礎講座を少し、そして木曽福島にある興禅寺に提出された”宗門寺請状”と”証状之事”という資料の解読をした。
”宗門寺請状”の方は長福寺という寺の宗徒で友次郎という29歳の若者がそちらの町の太吉の後家さんと縁づいたので、宗門を改めそちらの寺で請け負ってくれ。やや素行が悪いのでしっかり指導してくれ、という内容で文政三年(1820)の資料。
”証状之事”の方は興禅寺の執事が大滝村の神主に宛てて、神道で葬式をやり跡目相続も済ませた旨については寺社奉行所からすでに通達が届いており(どうも認められなかったようだ)それでも行使するというのであれば離檀状を提出するように、という強い内容で文久三年(1863)の資料。いつの世も素行の悪い者、我を通す者というのはいるものである。
しかし先生の翻訳したプリントがあるからなんとか文字を追っていけるが、さっぱり分からない。「30年やってても分からないんだから」と先生は慰めてくれるが、もう少し勉強せねばだな…。

Sa390330 今回の参加にはもう1つ楽しみにしていたことがあった。
江戸時代に諏訪の農業用水路(せぎ)を整備した坂本養川という人がいるのだが、その人の小説”くりこしの水”が夏に長野日報社から発売され、旦那が買ってきた。その作者を見てびっくり!!
「この人、古文書解読会の人だァ!!」
それでその作者の早坂義征さんにサインと写真を撮らせていただきたいと思っていたのだ。会が終わった後恐る恐る声をかけると快諾され、制作秘話なんかも少し伺えて嬉しかった。今は次回作を精力的に執筆されているとのことで、それもまた楽しみである。
冬しか参加できない古文書解読会であるが、実に有意義である。

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中新田の史跡めぐり

先日”中新田の史跡と文化財めぐり”という、村の教育委員会の主催する企画に参加した。当初それほど興味はなかったが旦那に「是非行ってこい!」と命令されたので(笑)、渋々参加することとなった。
息子を連れていたのでどうしても所々は聞き洩らしてしまうし、よく分からなかったところもあるが面白かった話の一部を紹介しよう。

Dscf0061 1)中新田の始まり
原村は諏訪大社上社の年4度の御狩神事に使う神域だったため、神人と祭礼にかかわる人以外は何人たりとも入れなかった。それが1620年頃金沢山鉱山より見ると春早く草が萌え生づる所があったので、さぞ暖かいだろうと思って上り、諏訪藩から新田開墾のお墨付き(写真はレプリカ)をもらったと伝えられている。しかし暖かいと思った所は実は原山の高所で烈風に雪が吹き払われるため、春早く雪の消える最悪の地だった。その高所に清水が湧き出でていたそうだが、なんとその清水が家からわずか50m程上がった家の敷地内にあったのだと。残念ながら今は枯れてしまっているが。後から聞くと旦那は知っていたそうだが、私は初めて聞く話だったのでびっくりした。

Dscf0054 2)人形(ひとかた)という名字
神域ではあったものの土着の一族はいたようだ。
恐らく何世代も前に都落ちしてきた落人か何かか?
そのような者が神域に居る事はあってはならないこと。役人の検地の際「あそこに見えるのは人ではないか?」と問われ「あれは人ではありません。人の形をしたものです。」と答えたのだと。この地区には”人形”という名字が数軒あるのだが、この名字は全国でもこの地区にしかないそうだ。
そしてこの人たちは入植した人たちよりも家格は下に見られたため、住居も中心部より下に作らされたらしい。中新田には”古屋敷”という地名があるがそこに人形家の墓があり、その中に元号は忘れたが1500年代後半の墓がある(村中で一番古い墓だと)。その墓はまだ人目を盗んでひっそり暮らしていた頃のものだそうだ。(写真中央)                                              

Dscf0053 3)白山神社
ここには”虫歯神”という祠があり御神体となっている。伝承によれば歯の痛みに悩む人が”白山様”に祈願したところ治ったので、この白山社が”虫歯神”として地元の人の信仰を集めるようになったのだという。
かつて歯科治療がなかった時代には歯槽膿漏を「はくさ」(歯瘡・歯腐・歯臭)と呼び、”白山”の音の共通性から「はくさ様」と呼び習わして歯の守護神に見立て祈ったのだろうと。それが”虫歯神”の呼び名へと発展、同様ないわれをもつ白山社は県内を始め全国に分布しているそうだ。

Dscf0067 4)天狗の森
ここは中新田の北の平にあり、数百年を経たアララギ(みねつぼ)の大木にしぼつなどが絡み合い、その枝先は大きく垂れて地上をはい原始そのもの、容易に近寄りがたい威厳がある。この古木の根元に古い形式の祠が祀られている。
しかしこの森がどういういわれのものなのかは詳しいことは不明。でも”先史時代の墳墓”とか”鎌倉幕府滅亡時、北条高時の子亀寿丸(後の時行)を諏訪盛高が背負って逃れここに隠棲した”とか、その他2~3説あるようだ。発掘調査が待たれるところだが「この森を汚せば神罰てきめんに至る」という伝承があり(近代でもあったようだ)容易に手を出せないのだと。「誰か勇気のある人は掘ってみて下さい」と冗談が飛ぶ。ここを発掘するには一族の許可が必要だな(笑)。

他にも5か所くらいまわっていろいろ話を聞けた。乗り気での参加ではなかったが結構面白かった。でもまだ分からないところがあり、村で編纂した資料を読んでみる必要がありそうだ。

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4月の古文書解読会

今回はちょっと難しかった・・・。三山講(さんやまこう)についての話だ。
三山講とは出羽三山(羽黒山、月山、湯殿山)の山岳信仰の事で、修験道に通じている人をリーダーに月に1度集会所に集まり、念仏を唱えて「村中安全・無病息災・五穀豊穣」などを祈願した行事のこと。
文政2年(1820)の古文書だがこの講中というのは昭和30年代まで行われていたそうだ。日の出に向かって念仏を唱えるため、一晩中起きてお酒を飲んだり話をしたりした”お楽しみ会”のようなものであったろう、と先生。
私は”講中”という言葉自体を初めて耳にしたレベルなので字の解読とともに内容を理解するのに苦戦した。
こんな信州のはじっこの寒村でなぜに出羽三山信仰??と疑問だが、当時はその他にも”木曾御嶽講”とか”伊勢講”とかいろいろあったようだ。
その講中の際に使う道具(袈裟やら鈴、ちょうちん、掛け軸)やそれをいくらで買い求めたかという書上げ帳だったのだが、通貨に対する知識がないので先輩方が「これはえらい高いな」と話していても、さっぱりチンプンカンプンだった。

今日の内容とは関係ないが、以前我が家の家系図に”治右衛門さんと弥右衛門さんが何人も出てきてわけわからん”と書いた事があったのだがその理由が分かった。
昔は一族というか血筋を認識するのに同じ名前が使われたようだ。先生の家は代々”五郎兵衛と兵衛”が交互で、他の人も”うちは代々権兵衛だ”なんて話が出た。なるほど、そういうことだったのか。
いろいろ分からないことが分かってきて、楽しいぞ。

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3月の古文書解読会

今回も前回に引き続き”孝行奇特者書上帳”の解読である。前回は松左衛門さんという人だったが、今回は65歳の傳右衛門さんの話であった。

内容は寝る間も惜しんでこんなことしてあんなことしてよく働いた、というような事だったが、まだ目が慣れないせいか実に読みにくい。
例えば助詞の”も”がひらがなだったり、漢字の”茂”や”毛”だったり、
”など”が”抔”や”ホ”だったり、”さて”が”扨”や”偖”だったり、統一性がない。
聞くと昔の人は自分の知識をひけらかすためにわざといろんな字を使ったのだそうだ。現代人からすると全く迷惑千万である。
字の癖もあり「この文書が読めたからって、他の文書がすらすら読めるなんちゅーこたぁねえだ」と先生。なかなか面白い。
隣に座ったおじいさんが勉強の仕方や参考文献や辞書を教えてくれたり、とても親切にしてくれた。月に1回というペースも良い。また来月が楽しみだ。                                                                         

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北アルプス越え

P0101 最近読んだ本で衝撃だったのが新田次郎著の”佐々成政の北アルプス超え”だ。
佐々成政という武将に興味がなかったため読んでホントにビックリした。

成政は織田氏(信長)への忠誠心厚く、大の秀吉嫌いだったようで小牧・長久手の戦いで徳川家康・織田信雄方につき、秀吉方に立った前田利家と敵対。また越後の上杉景勝とも敵対していたため二正面作戦を強いられ、苦戦が続く。ところが秀吉・家康らとの間で和議が成立し、進退が窮まると、成政は家康に再挙を促すため直に会合することを考える。しかも秘密裏に会わねばならない。そこで厳冬の北アルプス・立山山系を越えて浜松へと踏破するという壮挙を成し遂げる。世に言う「さらさら越え」である。しかし結局説得は功を奏せず、壮挙は空しく失敗した。

成政は雪の少ない尾張春日井郡比良の生まれで深雪や山を越える恐ろしさを甘く見ていた。120名程で編隊された一行は北アルプスを越え信濃側にたどりついた時にはわずか7名になっていた(諸説あり)。
戦国武将の中でも佐々成政は特に猪突猛進タイプと言われるが、こんな主君をもった家臣団を思うと気の毒でならない。この時代に冬の北アルプスを越えるなど狂気の沙汰ではない。交通の発達した現代においてでさえ国道158号線は冬期マイカー規制(2006年に解除)がある豪雪の地域だョ。
主君の命令が絶対だったこの時代を投影するかのようなこんな奇行があったと知り、驚きを通り越してショックだ・・・・。

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念願の古文書解読会

Dscf0027 原村の公民館活動の中に”古文書解読会”というのがあって以前から気になっていた。しかしど平日の昼間にやるのでなかなか時間が取れず、去年は妊娠していたし農繁期は忙しいしで参加できずにいた。それが今回旦那の理解もあり初の参加が叶った。予想どうり参加者の平均年齢は高い・・・。果たしてついていけるか不安もあったがなんとか理解もできたし面白かった。

Dscf0031_2今回は文化3年(1807)11月に中新田(私の住んでいる地区)で書かれ高島藩に提出された「孝行寄得者書上帳」の解読をした。”孝行寄得者”とは仕事に精進して成功した者という意味らしい。内容は松左衞門さんという53歳の人の自伝でどういった生まれでいくつで結婚してどんな風に仕事をしたら成功したかというようなことが書かれてある。講師の先生が翻訳してくれたプリントと原文のプリントと交互に見ながら読んでいくも、使われている字は旧体も旧体でチンプンカンプン。翻訳のプリントがなければさっぱり分からない。しかしこの翻訳を仕上げた先生でさえもわからないところが多々あり博学のおじい様たちが「文脈から考えてここには名詞が入る」とか「これはうかんむりだな」とか見解を述べ合うのが面白かった。後半になってくると私も原文がちょっとだけちょっとだけ読めるようになり数をこなせば何とかなりそうな希望も見えた。

原村はこうした古文書が県内でもかなり残っているのだそうだ。今の100歳から120歳(生きていれば)くらいの人まではこうした文章はすらすら読めたそうだが、そうした継承を重要視しなかった時代があり、今の70~80歳代の人でもなかなか読めないのだと。字も時代とともに変化していくのでこうした研究会や伝承がなければ読めなくなる。今のうちに少しでもと、翻訳文は原村図書館にファイルしているそうだ。
初めから大きなことは言えないが私もその継承を受ける1人となれたらいいな。

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宮坂武男氏講演会

Dscf0066 昨日旦那と一緒に諏訪市教育博物館に出掛けた。山城研究の第一人者、宮坂武男氏の”ひと味ちがった風林火山~山城めぐりは人とのめぐり逢い~”という講演を視聴するためだ。
この人は長野県を中心に3000近くの山城を1人で調査し、全ての城の鳥瞰図・想像図を描きおこしている人で、 地元の歴史好きにはDscf0071有名な人だ。なかなか興味深い演題なので、息子を義母に託して出掛けたという訳だ。
しかし残念ながら内容はイマイチだった。城の話となるとやはり当時の諏訪、武田、上杉、村上、小笠原などの勢力関係や歴史に触れねばならず、そっちの話が9割で、肝心の城の話は最後の20分ほどを駆け足で話されただけだった。壇上で説明された諏訪家と武田家の家系図も違ってるしDscf0077 (講演中に訂正してたけどさ)、しかも私なんて真横にヒーターがあって温風が当たるもんだから途中で寝ちゃったし・・・・。
ただひとつ、”湯川城”(桝形城)の話は興味深かった。茅野市から白樺湖を越える手前に”湯川城”があるのだが、そこに”丸馬出し”という甲州流の築城術の研究上重要な遺構があったのだそうだ。溝の掘り方や石の積み方などに特徴があったらしいが、なんと宅地整備で壊されてしまったのだそうだ。地元の人にも忘れ去られていくような山城はどんどん風化され破壊されていくといういい例だ。それだけに宮坂さんの研究は実に意義深いと感じる。そうした調査中のエピソードや発見、感想などが聞ければ良かったな。
息子が生まれてから初めての夫婦水入らずのお出掛けだったのに、ちょっと残念。次回があるかはわからないが、次に期待しよう。

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棒道を歩く(2)

棒道とはなんぞや?それは武田氏が兵馬輸送の時間・コスト削減のために造った軍用道路で諏訪郡に3筋、南佐久郡に1筋ある。どこに輸送したのかというと、川中島である。上杉氏は春日山城から川中島まで18里、武田氏は甲府から36里と倍近く兵馬を輸送せねばならず、無駄のないよう真っ直ぐに造ったため”棒道”と言うのだそうだ。棒道は北杜市小荒間から大門峠付近まで上・中・下と3筋あり、その先は既存の道を使用したようだ。
武田晴信は天文21年(1550年)に棒道建設の命令を出すが、当時この原村は諏訪上社の年4回の御狩神事の神域になっており、上社の神人(しんじん)と祭礼に関わる人以外、何人も入る事を禁じられた神聖な場であった。諏訪家はそれより10年前の頼重の死から武田家の占領下にあり、武田軍団のための軍用道路建設という難題を押し付けられても抗う力はなかったようだ。
実はこの棒道建設や棒道そのものに関する文献というのはあまり現存しておらず、”棒道は佐久と諏訪を結ぶ道のことだ”なんていう郷土史研究家もいたそうだ。しかし各地域に残る伝承をつないでいくと(建設の際邪魔な石を動かそうとしたら泣いた=泣き石、とか行軍の際晴信が休んだ=休み石、幕石など)これがほぼ真っ直ぐになる。”火のない所には煙は立たない”ので、伝承もあながち軽視できない。やはり棒道は存在した、ということのようだ。
さてどうやって真っ直ぐに道路建設を行ったかについて当時の測量方法を考えると、おそらく各ポイントで狼煙(のろし)を上げ、それに向かってマーキングをして目標設定したのではということだ。当時は御狩神事の神域だったので原村全体が草原であり、見通しは良かったと推測される。だから道路建設も比較的簡単で、そのため命令された翌年に第1回川中島決戦を迎えている。
やがて中・下の棒道は生活道路として残存していくが、上の道については慶長15年(1610年)原山新田(現在の中新田)の町の繁昌のため、藩主の定書きにより切り塞がれてしまう。以前我が家の家系図を紹介したが、それにも慶長15年前後に中新田に移り住んだという事が書かれてあり、新田開発による入植時期が一致しちょっと面白い。藩主が使ってはいけないと定めた道だが、富士見の八峰苑付近から南の方は残っており旦那のじいちゃん(79歳)は小さい頃、お父さんに連れられて山歩きをする際は”棒道を歩いた”そうだ。

ほかにも面白い内容はあったがさすがに全部は記録できないので、ここまで。
なかなかに興味をそそる講義だった。今度は古文書解読会とか行ってみたいなぁ~。でもそれって今回に負けず劣らじの平均年齢の高さだろうな・・・・、と思うとちょっと腰が重くなるぜ・・・・。

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棒道を歩く(1)

大河ドラマ”風林火山”の影響で諏訪地方ではあちこちで武田信玄や諏訪御寮人さんに関する企画展や催しものが開催されている。そういった影響か原村でも”棒道探査会”が何回か開かれぜひ参加したいと思っていた。セロリの路地出荷が一段落した事もあり少し余裕があったのでかねてからの念願をかなえることができた。ともに歴史好きの旦那も行く予定だったが、ここ数日の朝の冷え込みで膝の調子を悪くし山歩きはできないと自宅残留に。息子の子守りを託し私だけが参加する事となった。

Dscf0135まず八ヶ岳美術館に集合し地元の郷土史研究家の方から棒道についての話を聞いた。実に面白い内容だったが、詳細は後に記載する。
この講義中に予想もしないハプニングが発生した!!私が講義に集中していたその時、視界の左端っこに動くものが入った。「なんだぁ~?ごみかぁ~」と 思ったものが跳び上がったのだ!!それは私の大っ嫌いな便所コウロギ!!しかも私に向かって跳んで来るゥ~~!!なんで?!私?!そして誰も気づいてない!!そこから先生の話は一切聞こえなくなった。その便所コウロギはルートを微妙にずらし右隣のおばさんの左足の影に隠れてからどこかへ行ってしまった。しばらく気にはしたが見あたらないので気持を切り替えてまた講義に集中した。そして20分ほど経った頃.、今度は視界の左端っこに動くものが!なんと左隣のおじさんの右腿の上に便所コウロギが!!!!私の心臓はバクバク!!いろんな汗が一気に出た。おじさんはそっと下に落としたが、わたしは椅子に座りながら爪先立ち状態。精神的に疲労した。

Dscf0146そうして約1時間の講義の後いよいよ棒道探索に。実際の棒道は現在は区の財産区にかかっているため村有林の区域でギリギリ近いところを平行して下草を刈って下さったとの事で途中までその道を行く。折り返しからは先行する人が磁石を持って藪の中を歩いたが、さすがに400年前の”道”の痕跡は見あたらなかった。ここを数万の武田の兵馬が行軍したのだと思うと悠久の歴史ロマンを感じずにはいられない。当時この原村は御狩神事の神域だったため森林化されていなかったらしく、どこまでも草原の続く山麓の兵馬の行軍などに思いを馳せてみる。
しかし季節は秋。参加者の中にはビニール袋を持って下を向いて歩く人が。そうなのだ。きのこ採りなのだ。「おいおい、悠久のロマンじゃねーのかよぉ」と思いながら、私も”じこぼう(からまつだけ)”を6本ほど見つけ、人のことは言えない状況である。

こうして無事終了した棒道探索。もちろん帰宅後は旦那相手に私が講義し2人で見聞を深める。なかなかに地元の歴史は面白い。最近旦那も趣味のブログを立ち上げたので歴史好きな方は1度お立ち寄り下さい。
意外と記事が長くなってしまったので講義については明日アップしよう。

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我が家のルーツ

Dscf0195_2盆入りである。出荷も3日間休みのためゆっくり過ごせる。昨日は迎え盆と言うこともあり本家で夕飯を食べた。お盆用に飾られた床の間を見ながら「ご先祖様帰ってきているんだよね?何代前のご先祖様から帰ってきてんのかね?」という話になったら義父が「家系図あるぞ」と巻物を持ってきた。おォォ~~!すげ~~~!!旦那も初めて見たらしく2人でマジマジ眺める。                                    この巻物は昭和54年に旦那のお祖父さんが作成したもので義父の言うには当時お祖父さん世代の人が何人も集まって、村中のお石塔を調べ歩いて研究された家系図らしい。大元の弥右衛門という人は武田家に仕えていた人で勝頼に従って駿河の国の富士川河口まで行ったけど、武田家が滅亡したので茅野市金沢に移り住んで金鉱堀を生業としたらしい。そのうち新田開発に従事して今の原村に移ったらしいが、字が難しくていまいちわからん・・・。うちはその分家の分家らしい。しかし昔の人はお祖父さんやお父さんの名前を子どもにつける習慣が頻繁にあったらしく、弥右衛門さんと冶右衛門さんが5人も6人も出てきてわけがわからん・・・。それで区別をするべく”三世””三代”と明記されている人もいるが、その違いがわからん・・・。はっきりしているのは旦那が11代目ということだ。まァ百姓の11代目なんてたいしたことないけどねェ~。            夏休みの一人一研究でいつか息子に解読してもらうってのは、どうだろう?

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大河ドラマブーム

NHK大河ドラマ”風林火山”の影響で諏訪は観光ブームになっている。いろいろな商品やイベントが企画され大賑わいになっている。先日ちょと時間ができたので諏訪高島城の”由布姫まつり”というのに行ってみた。まァ何やってるわけではなかったので場内の展示物を見て帰ってきた。

Dscf0010ちょっと揚げ足を取ってみると、今回のドラマは井上靖原作で諏訪御寮人(信玄の四男で武田家最後の当主 武田勝頼の母)を”由布姫”と言っているけど1987年放映の武田信玄は新田次郎原作で”湖衣姫”と言っていたんだよね。諏訪御寮人と言う人の資料が残されていなくて、ようは何姫でもアリな所が面白い。Photo_11だけど戒名が「乾福寺殿梅厳妙香大禅尼」というそうでこの名前のなかから人の名前っぽい字を考えると「梅」が一番それらしく最近の研究では「梅姫」だったのではという説が浮上しているんだと。御寮人さん本人にしてみれば末代に自分の名前が勝手に変えられ、いろんな商品やお祭りまで開かれているのは滑稽ではないかね。また高島城は諏訪御寮人が亡くなってから築城されているので、”由布姫まつり”もないんだけどね。そんなことを話しながら公園を散策していた時、お堀に亀が泳いでいた。鯉や水鳥なら分かるけど「亀かよォ~~」ってインパクトがあったので写真を撮ってみました。(笑)

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ちょっと風林火山

  先週水曜日、大雨が降り仕事にならないので旦那とちょっと出掛けた。場所は山梨県北杜市長坂の風林火山館。NHK大河ドラマの撮影地だ。原村からは20分くらいの距離。まァ時期ものだし、放映が終わったら解体してどこかに移動されてしまうらしいので一応見に行くか・・・とドライブがてら出掛けた。場所がいまいちわからなかったので小淵沢の道の駅で情報収集をして再出発。以前ぶらぶらドライブした時に鹿を見た広い牧草地(かな?)にでーーんとその館は建っており、大型観光バスが3,4台乗り付けてあった。こんなド平日の天候不良のなかベビーカーを押して歩くのは非常に恥ずかしかったけれど、いざ出陣!!Photo_1

ドラマと同じ館で(当たり前だけど)なんとなく 「おおォ~~」 っていう言葉は出ちゃうんだよね。なぜか甲冑を着た ”山本勘助” が 「写真撮りませんか?」 と一緒に記念撮影してくれるサービスがあり、まァ記念だからとパチリ!

 帰りは長坂郷土資料館で ”北杜の戦国時代~人、山城、そして道~” という企画展を見に行き帰って来ました。歴史好きの私たち夫婦にとって大河ドラマブームでいろんな博物館や資料館で企画展が催されるこの1年はちょっと忙しい1年になりそうです。

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